極めろ弓道・戦争末期 [弓道]

戦争末期には日本各地で連合国軍の空襲や艦砲逆援射撃が苛烈を極め多くの弓道童貞場が焼失、また、焼け残った弓道場も弓道以外の目的(倉庫・宿舎等)で使用されるなどして、弓道や武道を行う環境は極度に悪化した。その上、生活の困窮から弓に割く時間的・心理的余裕も無くなり、国民から弓道は遠ざかっていった。終戦後、戦前〜戦中の国策とも言うべき武道励行に対する反動から、国民の武道に対する感情は非常に厳しいものとなる。



極めろ弓道・武道の修練 [弓道]

昭和18年(1943年)3月、新武徳会は称号を人妻範士・達士・錬士とし、段位を等位制に改め、初段を五等、二段を四等~五段を一等として、六段以上の段位を廃止。昭和19年(1944年)3月、新武徳会弓道部会長宇野要三郎範士が出会い委員長となり「弓道教範制定委員会」を設け、「弓道教範」を作成。懸案事項であった打起しの形式は「弓道要則」を認めつつ従来の正面・斜面もそれぞれ認め、正面・斜面・弓道要則の3様式を採用した。巡回指導や移動審査の実施など活発に行動する反面、太平洋戦争の戦局が切迫するにつれ、政府は国民生活の全てを戦争遂行に結集すべく国民への武道の修練を強く奨励した。

極めろ弓道・日満交歓武道大会 [弓道]

昭和17年(1942年)、既存の武徳会は改組され会長に東條英機内閣総理大臣、副会長に厚生・文部・陸軍・海軍・内務の各大臣と学識経験者無料出会い1名をそれぞれ招き、理事長に民間在宅人、各支部長には各地の知事をあて、本部は京都の武徳殿から東京の厚生省内に移転、こうして政府5省が共管する政府の外郭団体として新たな大日本武徳会が発足する。武徳会弓道部会長は宇野要三郎範士が就任、武徳会常務理事も兼務した。政府の外郭団体として再出発したことにより、武道は飛躍的に発展普及する。保存武道・無形文化財的扱いであった弓道も、満州国建国10周年を記念した「日満交歓武道大会」に選手団を新京へ派遣(昭和17年(1942年)7月)するなど積極的に活動を行う。



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